大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成4年(ワ)14712号 判決

原告

甲野太郎

甲野花子

右両名訴訟代理人弁護士

栃木義宏

被告

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

古澤健太郎

外一名

主文

一  被告は、原告らに対し、各金三五〇万円及びこれに対する平成四年六月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、二〇分して、その七を被告の負担として、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は一項につき仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、各金一〇〇〇万円及びこれに対する平成四年六月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  1項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告らは、夫婦であり、亡甲野一郎(以下「一郎」という。)の父母である。

(二) 被告は、精神病院として都立梅ケ丘病院(以下「梅ケ丘病院」という。)を開設し、運営管理している。

2  一郎の入院

(一) 一郎は、平成四年四月に都立砧工業高校に入学したが、一週間ほどして不登校に陥り、同月二一日に梅ケ丘病院で診察を受け、うつ状態と診断され、その後、約二週間に一度の割合で同病院に通院し、抗うつ剤や睡眠剤等の投薬を受ける等の治療を受けていた。

(二) 一郎は、同年六月四日午前一〇時三〇分過ぎころ、自宅でガス自殺を図ったため、救急車で慶応病院に運ばれ治療を受けたのち、その日の内に緊急保護で梅ケ丘病院に転送され、同病院に入院するに至った。

3  一郎の自殺(以下「本件事故」という。)の経緯

(一) 一郎は、入院中の同月一七日午前一一時過ぎころ、散歩兼買物のために看護婦の引率のもとに他の患者とともに外出した際、ビルの五階に上がり、飛び降り自殺を図ったが、取り押えられた。

(二) 梅ケ丘病院では、帰棟した一郎を個室に入れ、鎮静剤を注射し、ベッドの上に寝かせ、四本の抑制帯(幅三センチメートル、長さ2.5メートルの柔道着の腰ひものようなもの)で同人の両手、両足をそれぞれ縛りそれらをベッドの四角に括り付けて固定し、起きられないようにした。同日午後一時過ぎころには、一郎は入眠し、梅ケ丘病院は、看護婦を三〇分おきに巡回させ、その際に体温、脈拍、血圧、呼吸数を計って看護に当たった。

(三) 同日午後三時一五分ころ、梅ケ丘病院は、一郎の両手首に血行傷害が生じつつあると判断し、両手首の抑制帯の縛りを緩めた。

(四) 一郎は、同日午後三時四〇分ころから同日午後四時ころまでの間に、目を覚ますや、右抑制帯をほどき、その内の一本を入口の扉の上の格子に回した上で結んで輪を作り、そこに首を入れて、首つり自殺を図った。

(五) 梅ケ丘病院は、同日午後四時ころの巡回で、右自殺を図った一郎を発見し、心臓マッサージ等を施したところ、一郎の心臓が動き出したので、都立広尾病院に転送し、治療を受けさせたが、一郎は、回復することなく、同月二一日午前五時五五分、同病院において脳死による心臓停止で死亡した。

4  被告の責任

(一) 原告らは、被告との間で、前記入院に際し、原告らを要約者、被告を諾約者とする第三者(一郎)のためにする看護診療契約を締結した。被告は、原告らとの間の右看護診療契約に基づきあるいは不法行為法上以下のような注意義務を一郎の診療にあたり負担していた。とりわけ一郎は、入院の経緯がガス自殺を図ったことにあり、本件事故直前にも飛び降り自殺を図っていること等自殺念慮が強く存していたのであるから、自殺の危険に鑑み、その予防のため厳格周到な監視と十分な看護を与える義務が要求された。

(二) 本件事案に即すれば、被告もしくは被告の被用者である梅ケ丘病院の医師及び看護婦の負っていた注意義務は以下のものである。

(1) 保護室への収容について

一郎を、速やかに保護室があればそこへ収容し、仮に保護室がないならばそれに準じた特別な看護措置を講じなければならず、その際、格子等は自殺に利用される危険があるのでそのような造作部位のない部屋を使用する義務がある。

(2) 抑制帯の使用について

抑制帯は首つり等自殺の用具となりうるものであるから、鎮静剤を注射し、一時睡眠を確保したのであるから敢えて抑制帯を使用すべきでない。

(3) 抑制帯の使用方法について

仮に抑制帯を使用せざるを得ない場合であっても、一郎は強い自殺企図を有していたのであるから、抑制帯により四肢を縛られ、ベッドに横臥させられ、鎮静剤を注射されて一旦入眠したとしても、眼を覚ませば抑制帯をほどこうと試み、ほどいたときにはそれを利用して自殺を図ることは十分予想できることである。したがって、その危険が生じないようなセグフィックスやマジックバンド等の特殊な抑制帯を使用するか、そのような特殊な抑制帯を所持していないため通常の抑制帯を使用して抑制せざるを得ない場合には、一郎が抑制帯を容易にほどくことができないよう抑制する義務がある。

本件事故では、使用された四本の抑制帯のうち、両足及び左手に使用した抑制帯のベッド側の結び目はほどかれていなかったのであるから、一郎は、右手を縛っていた抑制帯を利用して自殺したものと考えられるが、一郎が抑制帯をどのようにほどいたかについては、①まず左手首の抑制帯の結び目をほどいた、②まず右手首の抑制帯の結び目をほどいた、③まず右手のベッドの横枠の結び目をほどいたかのいずれかであり、その方法としては、左手首の抑制帯の結び目をベッドの柵の縦のポールに擦りつけるようにして、左手を結び目からすり抜くことにより抑制帯をはずすか、右手首に顔を移動させ、抑制帯の結び目に口をつけ、歯を使って結び目をほどいたか、体全体を右手の方に寄せ、右手を伸ばすことにより、右手の指でベッドの横枠の抑制帯の結び目をほどいたか等の方法が考えられる。したがって、梅ケ丘病院は、手首の結び目をベッドの柵の縦のポールに擦りつけることが出来ないような位置や方法で、あるいは抑制帯の結び目に口をつけることができないように、別途腹部を固定できる抑制帯を併用するか、あるいは、ベッド側の抑制部位に手が届かないような位置に抑制する等、一郎が容易に一人で抑制帯をほどいてしまうことのないように抑制する義務を負っていた。

(4) 看護婦の巡回体制等について

一郎が抑制帯をほどいて、自殺を図るようなことがあっても、死亡に至る前に発見して対処可能な体制での看護措置(病室にビデオカメラを設置し看護婦室において常時監視が可能なような措置に講ずるか、看護婦による巡回監視を一〇分ないし一五分間隔を行う等)を行う等して、一郎の自殺を防止する注意義務を負っていた。

(三) しかるに、被告もしくは被告の被用者である梅ケ丘病院の医師及び看護婦は、右注意義務を怠り、①本来使用する必要もなく、一郎の身辺から離しておくべき抑制帯を安易に使用し、②ほどける危険のない特殊な抑制帯ではなく通常の抑制帯を使用し、しかも、一郎が一人で容易にほどけないような十分な抑制をせず、③一郎が抑制帯を使用して自殺をする前に防止することが可能なような巡回体制を取らなかったのであり、これは、前記看護診療契約上あるいは不法行為法上の注意義務を怠った過失であり、それにより、一郎を自殺させるに至らしめた。

5  損害

(一)① 逸失利益

一郎は死亡時高校一年生であった。賃金センサスによる平成元年の旧中新高卒の平均年収額は四五五万二三〇〇円であり、一郎は、将来一八歳から六七歳までの四九年間働くことが可能である。したがって、ライプニッツ係数(15.4435)により中間利息を控除し、さらに生活費として五〇パーセントを控除すると一郎の逸失利益は三五一五万一七二二円となる。

② 慰謝料

一郎の死亡に伴う慰謝料は一八〇〇万円が相当である。

③ 葬儀費用

原告らは、一郎の葬儀費用として少なくとも一〇〇万円支出している。

(二) 原告らは、右①、②、③を一郎の死亡により各二分の一の割合で相続した。

6  よって、原告らは、被告に対し、看護診療契約の債務不履行または不法行為(民法七〇九条、七一五条)に基づく損害賠償の内金として、各一〇〇〇万円及びこれに対する一郎の死亡日である平成四年六月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因(一)及び(二)の事実はいずれも認める。

2  同2(一)及び(二)の事実はいずれも認める。

3  同3(一)及び(二)の事実はいずれも認める。

4  同3(三)の事実のうち、一郎の抑制帯による縛りを緩めたとの点は否認し、その余の事実は認める。

梅ケ丘病院は、一郎の抑制帯による縛りを緩めたのではなく、同人の手腕に浮腫を認めたので、その軽減措置(マッサージ等)を行ったのち、再抑制したのである。

5  同3(四)の事実は認める。

6  同3(五)の事実のうち、一郎が、六月二一日午前五時五五分ころ、都立広尾病院で脳死による心臓停止で死亡したとの点は否認し、その余の事実は認める。一郎が脳死に陥ったのは六月一九日である。

7  同4の事実はいずれも否認する。

(一) 被告は、原告らの同意を得て、一郎と診療契約を締結したのである。

(二) 梅ケ丘病院は、平成四年六月一七日、午前中の外出時に自殺を図った一郎を帰棟後東六病棟の保護室において個室保護しており、この保護室は、昭和四四年六月二三日・厚生省公衆衛生局長通知・精神病院建築基準に適合した構造を持つものである。そして、右保護室には、同基準によって換気、通風等の環境条件への配慮から格子等が設けられているものであるから、一郎をこのような保護室に収容したことに何らの過失もない。

(三) 抑制帯は、現在、広く精神科をはじめ臨床各科において患者を抑制するために使用されているものでこれを一郎に使用したことについては、何ら過失はない。また、一郎が一旦入眠したとしても目覚めて、再自殺企図、自傷行為を行うことを予防するために、抑制を続けたものであり、その処置にも何ら過失はない。

(四) 本件の抑制は、午前一二時一三分ころの抑制については、梅ケ丘病院のスタッフ六名が、一郎の四肢を四本の抑制帯で結び、右四本の抑制帯をそれぞれベッドの頭側及び足側の金属製の横棒に一旦結んだ上で、ベッドの脚部に結び付け、さらに、同人の体動を抑えるため、シーツを同人の腹部の上からベッドの左右両側に回し、ベッド下部の金属製の横棒に結び付けた。午後三時一五分ころの再抑制については、看護婦二名が、浮腫の程度の強い左手の手首側とベッド側の抑制帯及び右手のベッド側の抑制帯をほどいた後、左手を抑制帯で結び、左右の手首を抑制した二本の抑制帯をそれぞれベッドの金属製の横枠に結び付けた。この抑制はいずれも看護学校で教科書として使用されている「基礎看護技術(第二版)」に記載されている「ひもの結び方」に基づいて適正に抑制されたものであり、普通では想像もつかないぐらい関節が柔らかかったり、関節の可動領域が極めて広い患者でなければ容易にほどけない方法であるから、抑制帯の使用方法に何ら過失はない。

そして、一郎は四本の抑制帯によって固定されていたばかりでなく、さらに同人の腹部の上からベッドの左右両側に回したシーツによって同人の体幹が抑制されていたのであるから、口を右手首に持って行きやすいような状態ではなかったのであり、また、同人が体全体を右手の方に寄せ、右手を伸ばすことができないようにしたばかりでなく、ベッド側の抑制帯の結び目に同人の手が届くことができないよう、ベッドの金属製の横枠の最下部に結び目をつくって再抑制したのであるから、同人の手の指が抑制帯の結び目に届き、抑制帯をほどくことはできるような状態でもなかった。また、抑制は、抑制帯が手首にピッタリ沿うような状態で、かつ、人指し指をねじ込むような程度に強度にしたのであり、かつ、手首は手の甲よりも細いのであるから、手首の抑制帯をポールに擦り付けるようにしただけでは容易に抑制帯を抜き取ることは通常不可能である。したがって、抑制の方法に何ら過失はない。

(五) 精神医学界における趨勢として、患者のプライバシーの問題、カメラが、患者の心理面に与える影響を考慮すると、精神病院においてビデオカメラを設置するのは不適当である。

また、梅ケ丘病院においては、現に暴れたり騒いだり他害のおそれのあるような重症の患者の場合以外は、状況に応じて三〇分から一時間毎に巡回観察を行っており、三〇分毎の巡回観察は、梅ケ丘病院において取りうる最も頻回な巡回観察である。一郎については、四肢を適正に抑制し、鎮静剤を注射した結果、興奮が鎮静化され、その後入眠したことから、三〇分毎の巡回体制を行うことにしたのであり、その後一郎は、眠り続けており、鎮静剤の効果が四ないし六時間持続することから、少なくとも午後四時ないし六時までは効果が持続しており、看護婦が午後三時三〇分ころに訪室したときも声をかけたにもかかわらず、一郎に体動はなく、全く覚醒する気配もなかったのである。したがって、三〇分毎の巡回観察を行ったこと及び午後三時三〇分の時点で巡回間隔を一〇分ないし一五分にしなかったからといって過失があるとはいえない。

8  同5の事実は否認する。

三  抗弁(過失相殺)

一郎は、自殺したのであるから、自らの手で損害を発生させた者であるというべきであり、かつ、一郎に事理弁識能力に欠けたところはないから、損害の発生について債権者の責めに帰すべき事由があるといえるので、過失相殺を行うべきである。

第三  証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

一  請求原因1項(一)及び(二)の事実は当事者間に争いがない。

二  同2項(一)及び(二)の事実は当事者間に争いがない。

三  同3項(本件事故の経緯)については、当事者間に争いのない事実及び成立に争いのない乙第一ないし三、八号証、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第九、一三号証、証人佐藤泰三、同鈴木陽子、同高木洋子、同小山哲夫の各証言、検証の結果によれば、以下の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

1  一郎は、世田谷区立若林中学校の二年生の学校祭のときに、校内暴力を受けたことから不登校に陥り、その後、同中学を卒業し、平成四年四月に都立砧工業高校に入学したが、一週間ほど通学した後再び不登校に陥った。そこで、同月二一日に梅ケ丘病院で診察を受けたところ、無気力、集中力低下、睡眠傷害等の症状が認められ、うつ状態と診断された。その後、約二週間に一度の割合で同病院に通院し、抗うつ剤や睡眠剤の投薬を受ける等の治療を受けていた。

2  一郎は、同年六月四日午前一〇時三〇分過ぎころ、自宅でガス自殺を図ったため、救急車で慶応病院に運ばれ治療を受けたのち、その日の内に緊急保護で梅ケ丘病院に転送され入院するに至った。一郎は、重症の神経症の患者が入院する東六病棟に入院した。

3  一郎は、入院中の同月一七日午前一一時過ぎころ、散歩と買物をするために看護婦二名の付添いのもとに他の患者二名とともに外出したが、その際、突然走り出し、付近のマンションのエレベーターに乗り、後を追った看護婦の制止に抵抗しながら五階のフェンスから体を乗り出し、飛び降りようとした。看護婦がその体を押さえ、付近の建設工事に従事していた男性三人の応援を求めて一郎の飛び降りを止めることができ、病院に連れ帰った。

4  梅ケ丘病院では、帰棟した一郎を東六病棟内の保護室に移したが、一郎の興奮、不穏状態は続いており、永山医師の指示により同日午前一二時ころ鎮静剤であるホリゾンを注射した。しかし、依然として体動があり、入眠せず、いきなりベッドから飛び降りようとする動作が見られたため、さらにホリゾンを注射し、その後レボメプロマジン(LP)とピレチアの混合剤を注射した。しかし、まだ興奮、不穏状態が続いたため海老島医師の指示により抑制帯による抑制をすることにした。総勢六名で、一郎の両手首、両足首を四本の抑制帯で結び、その四本の抑制帯をそれぞれベッドの頭側及び足側の金属製の横棒に一旦結んだ上でベッドの脚部に結び付け、両手を頭の両側に伸ばしたいわゆる万歳の形で抑制し、さらに、同人の体動を抑えるため、シーツを同人の腹部の上からベッドの左右両側に回し、ベッド下部の金属製の横棒に結び付けた。そして、その後興奮状態は鎮静化したので、以降、看護婦が三〇分毎に巡回観察を行って、状態観察及びバイタルサイン(体温、脈拍、血圧、呼吸数)の測定等を継続的に行うことにした。同日午後一時過ぎの巡回観察では、一郎は入眠し、体動はなかった。その後、午後一時三〇分、二時、二時三五分の三〇分毎の巡回観察を行ったが、一郎は、ずっと眠り続けていた。

5  午後三時には海野医師が一般検診を行ったところ、心雑音が聴取されたが、一郎は目覚める気配もなく眠っていた。しかし、両手腕に浮腫が見られたために、午後三時一五分に看護婦二名で、まず、右手のベッド側の抑制帯をほどいて、右手を万歳型から軽いL字型にしてマットレスからはみ出ていた手首を中に入れ、ほどいた抑制帯を今度はベッドの横側の下の金属製の横枠に結び付け、次に、左手の手首側とベッド側の抑制帯をほどき、手首をマッサージした後、手首の抑制を初めの位置よりも一センチメートルほど上腕側に再抑制し、腕を万歳型から体の脇にくるように下ろした状態にして、ベッド側の抑制帯をベッドの横側の下の金属製の横枠に結び付けた。その間、一〇分から一二分を要した。一郎は、その間も眠り続けていた。

6  同日午後三時三〇分ころ看護婦が巡回観察を行った時にも、一郎はずっと眠っており、バイタルサインを測定しても、声をかけても反応がなく、体動もなかった。観察には、七、八分を要した。

7  同日午後四時一〇分ころ、看護婦が巡回観察を行うために訪室したところ、ドアが開かず、ドアの上部の格子にひもがかかっているのが見えたため、小山看護長に連絡し、ひもをはさみで切って入室した。一郎は、使用された抑制帯のうちの一本を使って、首つり自殺を図っており、入室したときはドアの前に倒れていた。そのとき一郎は、呼吸が停止し、脈がなく、意識もない状態であった。四本の抑制帯のうち、両足及び左手の抑制に使用したもののベッド側の結び目はほどかれておらず、右手の抑制帯がはずされていた。直ちに看護婦らが心臓マッサージ、人工呼吸を行うとともに、医師に連絡し、駆けつけた医師により、心臓マッサージ、酸素吸入、昇圧剤等の点滴等の蘇生術を施した結果、血圧、脈拍ともに上昇した。同日午後四時五五分に都立広尾病院に転院し、一時は自発呼吸を回復したが、脳浮腫が進行し、同月一九日には脳死状態となり、同月二一日、死亡した。

四  次に、同4項(被告の責任)について判断する。

1  証人佐藤泰三の証言によれば、うつ病患者は、一般に自殺の危険性が高いことが認められ、特に本件では、前記認定のとおり、一郎の入院が、ガス自殺を図ったことにあり、本件事故当日の平成四年六月一七日の午前一一時ころに、一郎は、突然ビルの五階に上ってそこから飛び降りようとしたのであって、取り押えられて帰棟したときも、一郎の興奮、不穏状態は続いており、いきなりベッドから飛び降りようとする動作が見られたことから判断すれば、本件事故当日の一郎の自殺念慮は、極めて強いものであったと認められ、被告としては、本件事故当日は、特に自殺を防止するための十分な監視と周到な看護を尽くす義務を負っていたものといえる。

2  梅ケ丘病院では、前記認定のとおり、一郎を、保護室に収容し、鎮静剤を注射し、四肢を抑制帯で抑制し、三〇分毎の巡回観察体制を採った。

(一)  保護室への収容について、原告は、格子等は自殺に利用される危険があるのでそのような造作部位のない部屋を使用する義務があると主張するが、保護室の内部構造等については、法律上特別な規定があるとは認められず、また、格子があるとしても、自殺との関連性が間接的であることからしても、格子のある保護室に収容することについて過失は認められない。

(二)  抑制帯による抑制については、本件事故当日に一郎を保護室に収容したときも、一郎の興奮、不穏状態は続いており、鎮静剤を使用した後もいきなりベッドから飛び降りようとする動作等が見られたのであるから、抑制帯による抑制はやむを得なかったものと認められる。証人佐藤泰三の証言によれば、本件で使用された抑制帯は、前記柔道着の腰ひもようのもので、抑制の方法として一般に使用されているものであることが認められるから、特段の事情のない限り、抑制の実施は右抑制帯で足りるものというべきで、それ以上にセグフィックスやマジックバンド等の特殊な抑制帯を使用しなければならない義務までは認められない。また、同証人の証言によれば、病勢が強い場合には、鎮静剤を注射し一旦入眠等状態が落ち着いたとしても、効果継続時間内に目が覚めて再び興奮、不穏状態になることもあることが認められ、これと、一郎は、当時、自殺念慮が極めて強く、病勢は強いものと判断されたことからすれば、一郎が目覚めて再び自殺を図ろうとすることが十分予想されたものといえる。したがって、一郎について入眠した後も抑制を継続したことは適当な判断であって、過失があるとはいえない。

しかしながら、本件における抑制は、一郎の自殺を予防するためになされたものであって、右のとおり、一郎が、目覚めて抑制帯をほどき自殺を図ることが予想しえた以上、被告としては、一郎が一人で抑制帯を容易にほどくことができないように抑制する注意義務があったものというべきである(特に、抑制帯は自殺の用具として使用されるおそれのあるものであるから、一郎のように自殺念慮の強い患者に対し抑制帯を使用する場合、右義務は強く要求されるものといえる。)。

梅ケ丘病院では、午前一二時過ぎに最初の抑制を行い、その後、午後三時一五分に再抑制を行った。抑制方法については、前記認定のとおりである。午後三時三〇分ころから三七、八分ころまでの看護婦の巡回観察の際、一郎は、ずっと眠り続けており、バイタルサインを測定しても、また声をかけても反応がなく、体動もなかったのであるが、午後四時一〇分ころには、首つり自殺を図り、呼吸が停止し、脈がなく、意識もない状態で発見されたのである。

したがって、一郎は、巡回から巡回までの約三〇分間に、目を覚まし、抑制帯をほどき、ドアの格子に抑制帯の一本(前記の事実から、右手首の抑制帯と推認される。)をかけ輪を作った上でそこに首を入れて自殺を図ったことが認められる。実際、一郎がどのようにして抑制帯をほどいたかについては、証拠上明らかではない。しかし、約三〇分の間に、それまでずっと眠り続けており、バイタルサインの測定や声をかけても反応がなかった一郎が、目を覚まし、四肢に抑制されている抑制帯をほどき、ドアの格子に抑制帯の一本をかけ、輪を作った上でそこに首を入れて自殺を図っており、しかも、証人鈴木陽子の証言によれば、一郎が収容された保護室とナースステーションは三メートル程の距離であり、保護室でなにか異常な物音がすれば、ナースステーションにも聞こえてくるものであるが、午後三時三〇分から四時一〇分の間に、ナースステーションにいた同証人は何の物音も聞いていないことが認められる。そして、証人佐藤泰三、同鈴木陽子、同高木洋子、同小山哲夫の各証言によれば、抑制帯を使用した例でその抑制帯がほどけたことはほとんどなく、例外的に大変な汗かきや極度の肥満、関節が非常に柔らかいなどの特別体質の場合以外は、抑制帯はほとんどほどけないものであることが認められ、一郎が、その特別な場合にあたるという証拠も見られない。

以上の事実から判断すると、一郎はナースステーションに聞こえる程の物音もたてずに抑制帯をほどいたもので(前記のとおり一郎はベッドに両手首、両足首を固定して抑制されていたもので、その状態で抑制帯をほどこうとベッド上で動けば少なからぬ物音がするのが自然である。)、同人が特別な体質であるともいえない以上、一郎の抑制は、さ程困難を要しないでほどくことができたものであったと推認せざるを得ない。前掲証人らの証言によれば、抑制(再抑制も含め)に際し、看護婦らは教科書(乙五)に従い抑制したものと認識していることが認められるが、仮に、教科書どおりの抑制であったとすれば、容易にほどけることはないはずであるから、同人らの認識は別として、その抑制過程には、特定はできないものの何らかの問題があり、ひいては、抑制方法に過失があったと言わざるを得ない(過失の認定としては、抑制のどこかの過程に過失があったという程度の認定で足りるものと考える)。

なお、成立に争いのない乙第六号証の一及び二、証人佐藤泰三、同小山哲夫の各証言によれば、鎮静剤のLPは、その効果が一般に四ないし六時間継続し、その後も直ちに効果が消滅するのではなく、徐々に効果が消えていくことが認められる。しかし、その効果は人によって異なるのであり、前記のとおり病勢の強い人には鎮静剤が効かない場合もあるのであるから、鎮静剤を注射したからといって、抑制帯の抑制がほどけるようなものであってはならず、右鎮静剤の注射は過失を否定するものではない(なお、本件注射は、午前一二時過ぎであり、一郎が発見されたのは午後四時一〇分ころであるから、一郎が抑制帯をほどいたのは、鎮静剤の効果が消える時間帯であったと認められ、この時間帯ころに一郎が目を覚ますことは十分予見し得たものであり、ひいては、目を覚ました一郎が自殺を図り、抑制帯をほどこうとすることも予見し得たものと認められる。)。

3  以上の認定のとおり、被告(抑制もしくは再抑制を行った者ら)には、抑制帯の抑制方法に過失があったと認められ、それにより、一郎は、自殺を図り、死亡するに至ったのであるから、被告は、民法七一五条、七〇九条により一郎の死亡によって生ずる損害について、賠償する義務を負う。

五  次に、同5項(損害)について判断する。

1(一)  逸失利益

前記認定のとおり、一郎は、中学二年生のときから不登校に陥り、その後、高校に入学したが、一週間ほど通学した後再び不登校に陥った。前記認定事実及び前掲乙第一ないし三号証によれば、一郎は、友達とうまくしゃべれない、自分だけ取り残されたように感じる、よく眠れない等を訴えて梅ケ丘病院で診察を受けたところ、同病院でうつ状態と診断され、同病院において投薬等の治療を受けるも、自宅でガス自殺を図り、同病院に入院するようになった。入院後も、一郎は、ジャージーの紐で首を絞めようとしたりしたこともあり、本件事故に至ったのである。これらの事実からすると、一郎の症状は、自殺念慮の強い、重度のものであることが認められる。予後についても、通常人として社会において就労して収入を得ることが可能であるか証拠上明らかでなく、その可能性は疑問であると言わざるを得ない。したがって、一郎の逸失利益は算定不能であり、その主張は理由がない。しかし、これらの事情は、慰謝料の算定において斟酌する。

(二)  慰謝料

一郎は、精神の病気に侵されていたとはいえ、自分から命を絶ったのであり、前記認定のとおり、梅ケ丘病院としても、過失のあったことはともかく、一郎の自殺企図に対し、保護室に収容し、鎮静剤を注射し、抑制帯による抑制を行い、三〇分毎の巡回観察を行う等病院としてそれなりの対応を行っていたものである。以上の事情及び右(一)の事情等を考慮すれば、一郎の精神的苦痛は、六〇〇万円が相当である。

(三)  葬儀費用

葬儀費用は、その支出が社会通念上相当と認められる程度で、一郎の死亡により通常生ずべき損害であるといえる。弁論の全趣旨によれば、原告らは、一郎の葬儀費用として一〇〇万円を支出していることが認められ、その額は、社会通念上相当といえる。したがって、原告らは、被告に対して各五〇万円の賠償を請求できる。

2  原告らは、一郎の死亡により右(二)の請求権を各二分の一の割合で相続した。

六  次に抗弁(過失相殺)について判断する。

前記認定のとおり、本件事故当日、一郎は、飛び降り自殺を図ろうとして、取り押えられ、帰棟してからも、興奮、不穏状態はおさまらず、ベッドから飛び降りようとする動作が見られたのである。また、その後、入眠したが、目が覚めるやすぐに首つり自殺を図ったと認められるのである。とすれば、当日の一郎は、自殺念慮が極めて強く、放置すれば自殺に向かって突き進むような状態であったと認められる。被告としては、自殺念慮が極めて強いことを認識していたのであり、一郎が自殺に走るのを防止することが看護の主目的であったといえるのであるから、被告の過失により一郎の自殺を止められなかった以上、過失相殺はなしえないものと言わざるを得ない。したがって、この点についての被告の主張は採用できない。

七  結論

以上のとおりであるから、原告らの本件請求は、不法行為に基づく損害賠償請求権として各三五〇万円及びこれに対する一郎の死亡日である平成四年六月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認め、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小田泰機 裁判官田中治 裁判官井上直哉)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例